这是95年的 桑原水菜大婶 写的 直江の独白
私にはね、长い间、とても苦しいと思い続けていることがある。
いまだに格闘していて克服の兆しも见る事のない癌细胞が精神を触んでいる。私の胸に常に潜んでいる。コレは、私の、あらゆる悪と憎と爱を生み出す、根源なのです。
私は悲しくて泣く事がないのですよ。泣く时はいつも可笑して泣く。哄笑しながら泣く。自分の惨めさを嘲笑う。无能さを嘲笑う。卑屈なプライドを嘲笑う。忆病さを嘲笑う。『彼』でない自分を嘲笑う。
嘲笑うためだけにしか、私の涙はないのではないがと思う。
これは、ひ弱な己をひたすら矮小化していくだけの自己爱。
あなたが知っている通り、この男は自分にしか兴味がない。他人に兴味をもつのは、结局それが世界の中心であるはずの自分を全く无意味なものにまでおとしめる----私を否定しつくす存在だからであってそうしながら焦がれて憧れてその存在のようになりたくて(そう。私は确かに『彼』になりたい!)そうして犯してしまった万人に笑われるあからさまな失败を缮おうとして赤面し、逆上し、责められる前に自分を责め尽くして、耐え难し耻ずかしさを吐き散らして胸から追い出し、お愿いだから责めないでくださいと卑屈に拝むのに似た、実に罪逃れじみた告白を、こうして缲り返しているのですよ。
-------サリエリを崇拝する人间は、极めきった马鹿だ。
教えてほしい。どうしたら焦がれるこの手をなだめられたりするものか。
私だってずっとこの苦しいものをなだめようとしてきた。纳得できる考え方がどこかにあると思ってきた。世の多くのひとがそうであるように、缔めをつける方法が必ずあるのだと思ってきた。けれどどんな様々な慰めも自分を纳得などさせることはできないじゃないか。なんの力ももたないじゃないか。何度か纳得した気になったって、彼の精神の前ではいつも败北して、脆く崩れ去った。
彼を批判することは、実は私にはいくらだってできる。だけとそんなことして、自分の美点や优越をたくさん见たって、私は私を纳得させることはできなかった。私の方が优れていて、彼を批判できる部分はどうでもいい部分だった。それは『最も価値あること』ではなかった。私が最も大事だと思うものではないから、苦しさを疗す薬にはならなかった。私が最も大事だと思う场所で、彼はいつも私には予想もつかない圧倒的な『精神の高さ』を现してきた。そのとき、私はまるで『永远』でも见たかのように彼に陶酔し、陶酔しながら、同时に地狱のような嫉妬を味わってきたのですよ。
それでもどうにかしょうとしてきたんだ。
缔める以外に理屈をつけて自分を纳得させられる人间が私には不思议だ。どうしたら焦がれるのをやめることができるのか。求める思いが强ければ强いほど----その场所を焦がれれば焦がれるほど、纳得などできないんだ。なだめることなどできないんだ。杀すことなどできないんだ。この胸の奥に懐む、魂を焦がし尽くすような悪性の热情は、死ぬしか死なせようがないんだ。
これは根源なんだ。
根源となれ合いながらいくのができなければ、抱えて飞び降りるしかない。
私は私の无能さから伪善者みたいな前向きをかかげてみたり、死にもの狂いで手探りをしていたけれど、この根源の悪魔じみた力には何の効果も意味もなかった。せめてこの感情が、彼の一部(彼の优越感をささやかにも満たすような)になれるといいと思うけれど、あのひとの精神はどうやら、私が苦しくて吐いた呪いと祈りを、届けるにはあまりにも、违い场所にありすぎる。
私はあのひとの精神のなかにのみ、天国を见る。
その天国も、自らの内部に地狱ほどの痛みを抱え込むことなしでは见ることができない。
これが私の信仰です。笑ってもいいんだ。
私が破绽するなら、破绽という名のドキュメントをみせてあげるよ。あなたがたは、それを安っぽい言叶を并べて批评しながら楽しむといい。
魂だけで触れあうことができたら、どんなにいいかと思う。
でも私达は生き物だから、それは无理なのだろうね
————————————————————————————————————1995.8.21
ps:翻译 可见于 千亿之炎 论坛