元和2年(1616年)、危笃となった家康は神号や葬仪に関する遗言を同年7月に大僧正となった天海らに托す。家康死后には神号を巡り金地院崇伝、本多正纯らと争う。天海は「権现」として山王一実神道で祭ることを主张し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主张した。天海が2代将军となった徳川秀忠の谘问に対し明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その后の豊臣氏灭亡を考えると不吉であると提言したことで家康の神号は「东照大権现」と决定され家康の遗体を久能山から日光山に改葬した。
その后3代将军・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍冈に寛永寺を创建する。江戸の都市计画にも関わり、阴阳道や风水に基づいた江戸镇护を构想する。
紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を愿い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福岛正则・徳川忠长など赦免を愿い出ている。これは轮王寺宫が特赦を愿い出る惯例のもととなったという[2]。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年后に、朝廷より慈眼大师号を追赠された。
墓所は栃木県日光市。
庆安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。