何故こんなにも低评価で、内容が理解されてないんでしょうか?
まず前提からいきます。前作の『破』は明らかに『前进』ではありませんでした。
それは副题のYOU CAN (NOT) ADVANCEからも解ると思います。
テレビ版のシンジはミサトと面と向かってはっきりと「仆はもうエヴァには乗りません」と言う。
対してミサトも「自分から积极的に话している」と言います。
破のシンジは、ミサトに背を向け颜も见ずに「仆はもう谁とも笑えません」と言い、逃げ出します。
テレビ版のシンジは釈然としない颜で駅で『立って』いて避难警报を闻く。
破のシンジはテレビ版の「雨、逃げ出した后」と同じような、电车の中で『うずくまった』状态で、そのまま状况に流されるだけです。
テレビ版のシンジは「もう乗らないって决めたんだ」と言いつつ、戦いの见える加持の畑の近くまで『自分の足で』来ています。
破で、非难シェルターに二号机がつっこんでくるとこまでずっと『座り込んでいる』
初号机覚醒の理由も、テレビ版では「もう谁かが死ぬのは嫌だ」というもの。
破は、「世界がどうなってもいいけど绫波だけは绝対助ける」
结果的にニアサードを起こして世界崩壊の一歩手前までいってしまいます。
『破』は、成长や前进などではなく、明确な『幼児退行化』でした。
Qの『14年后』というのは明らかに旧剧场版、EOE公开からの、现実での経过时间だし
物语の全ての事象が『序、破下げ』を示唆しています。
状况が一変し、それに适応してきたヴィレの面々と比べて、シンジは未だ『14年前と同じこと』をやろうとする。
乗るなと言われるのに乗ろうとする。やるなと言われるのにやろうとする。
アスカの「バカというよりガキね」でタイトルがようやく出てくる。
ネルフに着いてからのシンジの行动を见て欲しい。父亲に会うでもなく、绫波を探すでもなく
『空になった初号机のケージ』に、ぽつんと『座り込んで』いる。
まるで、昨日そこに玩具があったので今日も来てみた子供のような、単纯で非积极的な行动。
自分からなにかをしよう、変えようという気がない。また同じことをすればいいと思っている。
カヲルと会った后は、今度はピアノの侧で座って待っているだけです。
この一连のシーンでは、シンジの背后に空の初号机のケージが映っています。
シンジの空虚な心の中に、初号机の影がちらついている。
今作でもうひとつ重要な点、系列を通して神の如き万能性を有していたカヲルの『失坠』です。
彼もまた、新剧では『缲り返し』であることを示唆し、自覚的に昔と同じことをやろうとする。
防护服を着て、本部外周?のようなとこに出て、世界の现状を说明するシーン。
シンジ达の居る阶段の下に、『见えてはいるが、どうやっても行き着くことの出来ない、朽ちた阶段』が映っています。
动画ーションでは、実写のように「偶然映り込んだ」ということは起こり得ません。
监督の意図したものしか画面に反映されないし、それには必ず意味があります。
この『もう一つのルート』が意味するところは、说明不要でしょう。
さて、Qでは、何もかも事情を知っていて、全てを见透かしたような态度だったカヲルが、初めて逡巡し、狼狈します。
テレビ版では结果的に敌対し、シンジの心に深い伤を残してしまったカヲル。
「今度こそ君だけは、幸せにしてみせる」という言叶通り、Qでの彼の立ち位置は、シンジにとって非常に甘いものでした。
「仆は君に会うために生まれてきたのかもしれない」から「生まれてきたんだね」という断言に変化し
共に过ごし、共にエヴァに乗り(しかしプラグ内には见えない壁がある)、二人なら出来る、一绪にやり直そうと优しい言叶をかける。
しかしこれは间违った选択。「ごめん、これは君が望んだ幸せではなかった」と言い、あっけなく散って逝く。
旧作と违い、シンジのことを常に想い、シンジのために全てを捧げる姿が感动的です。
シンジはカヲルが止めようと言うのに、枪でやり直すなんてギャグを言いつつ、暴走します。
ここで、序でライフルを持ち直すために顽张った姿と、「绫波を返せ」の眼のアップと同じカットが入る。
昔上手くいったから今度も上手くいくはずという非常に安易な选択を、周囲が止めるのに実行したシンジには、当然悲剧しか待っていません。
前作までで绝賛された名シーンをリフレインさせ『失败』を表现する、强烈な『ヱヴァ』の否定がここにはある。
そして最后に集まるのは、系列を通して『绝対的な他者』であったアスカと、自我の芽生え始めたレイ。
エントリープラグが子宫の暗喩であることは系列ファンなら承知のことで、この完全にプライベートな个室は
系列を通して、『心の部屋』の役割を果たしてきました。
わだかまりのあったトウジを入れることで分かり合い、绫波の心をこじ开け助けることで他人と繋がった。
今作のラストで、绝対的他者であるアスカは、旧作であれだけ固执していた二号机(ママ)を、シンジを止めるためにアッサリ破弃し
息をきらして无理やりプラグをこじ开け、ずかずかと入ってきて、シンジを外に连れ出します。
破では、『谁にも頼らない』、『一人で生きて行ける』と豪语していた式波も、Qの冒头では「コネメガネ援护!」や「なんとかしなさいよバカシンジ!」と
人に頼りまくりです。これが彼女にとっての『成长』だったんです。
旧作であれだけ嫌悪していた绫波にも「あんたはどうしたいんだ!」と说教します。
また、今作ではシンジに対して暴言を吐きまくりますが、旧系列で连呼していた「死ね」や「杀す」といった言叶は、决してシンジには言いません。
アスカの优しさ、シンジに対する想いは、ラスト一连のシーンの台词、宫村优子の演技に全て表れています。
序で、ミサトがシンジの手を引いたシーンと全く同じ构図で、アスカはシンジの手を引き、その后ろを绫波が着いて行きます。
命令以外の动作を行わない『アヤナミレイ』は、シンジの落としたS-DATを拾ったのか・・・?
旧系列で、最后まで绝対的な他者としてシンジを拒绝したアスカが、このどうしようもない迷子の二人を引率するという展开。
EOEを彷佛とさせる赤い砂漠を歩いて行く三人の姿。基本的にエヴァのEDというと
『つづく』の画面で、本编と切り离された流れ方をするのですが、魂のルフランのように
本编に食い込み『続いていく』ことを强调した、『桜流し』の曲の入り方も、とても美しい。
エヴァに乗ることで他者と繋がっていたシンジは、「乗らなくいい」となった时、どう行动するのか。
『エヴァ』という作品を作り続ける监督の喜びと苦悩。その答えが、次回で明らかになることでしょう。
Qは、旧系列とは别のところにあった新剧场版を、EOEと同じ地平に繋げた、重要な作品です。
ここに立ったことで、14年间を受け入れたことで、ようやく物语の行く末が见えてくる。
次回のタイトルが『ヱヴァ』から『エヴァ』表记に戻っていることからも、Qの役割はわかります。
ただ単に旧作をパワーアップさせただけの『破』までとは违い
新しい展开にしつつ、旧作を包括し、新剧场版としてのクライマックスへと繋がっていく。
决して訳が判らない映画ではないし、むしろひとつひとつのシーンが、非常に明确な意図を持って构筑され
无駄な部分など一切ない、実は破よりもアクションシーンの多い(というかネルフパート以外はほぼ全部アクションシーン)娯楽作ですし
それぞれ违う立场の人间が、己の愿いと意地をかけて全力で行动する、热い展开になっています。
ここが、EOEとは最も违う部分ではないでしょうか。あれは皆同じ组织に所属し、ゲンドウの掌で踊らされ、一方的に破局を迎えた映画でした。
确かに、初见ではシンジと同じように明らかに说明不足で置いてけぼりな印象になるように作られているし
主人公が一番ダメダメ野朗という、なんともスッキリしない构成だし
それまでの『人类対使徒』という构図や、大规模な组织运営の描写がなくなったことで
戦闘のスケール感や盛り上がり、ヒーロー映画としての娯楽性が、著しく低下したことは事実ですが
私はここまで考え抜かれた続编に、とても感心しました
と同时に、世间一般の评価がとても低く、作品内容がまともに理解されてない现状を悲しく思っています。
软件発売を机に、もう一度Qという作品の実像を见直してみてほしい。
杰作ですよ、これは。
まず前提からいきます。前作の『破』は明らかに『前进』ではありませんでした。
それは副题のYOU CAN (NOT) ADVANCEからも解ると思います。
テレビ版のシンジはミサトと面と向かってはっきりと「仆はもうエヴァには乗りません」と言う。
対してミサトも「自分から积极的に话している」と言います。
破のシンジは、ミサトに背を向け颜も见ずに「仆はもう谁とも笑えません」と言い、逃げ出します。
テレビ版のシンジは釈然としない颜で駅で『立って』いて避难警报を闻く。
破のシンジはテレビ版の「雨、逃げ出した后」と同じような、电车の中で『うずくまった』状态で、そのまま状况に流されるだけです。
テレビ版のシンジは「もう乗らないって决めたんだ」と言いつつ、戦いの见える加持の畑の近くまで『自分の足で』来ています。
破で、非难シェルターに二号机がつっこんでくるとこまでずっと『座り込んでいる』
初号机覚醒の理由も、テレビ版では「もう谁かが死ぬのは嫌だ」というもの。
破は、「世界がどうなってもいいけど绫波だけは绝対助ける」
结果的にニアサードを起こして世界崩壊の一歩手前までいってしまいます。
『破』は、成长や前进などではなく、明确な『幼児退行化』でした。
Qの『14年后』というのは明らかに旧剧场版、EOE公开からの、现実での経过时间だし
物语の全ての事象が『序、破下げ』を示唆しています。
状况が一変し、それに适応してきたヴィレの面々と比べて、シンジは未だ『14年前と同じこと』をやろうとする。
乗るなと言われるのに乗ろうとする。やるなと言われるのにやろうとする。
アスカの「バカというよりガキね」でタイトルがようやく出てくる。
ネルフに着いてからのシンジの行动を见て欲しい。父亲に会うでもなく、绫波を探すでもなく
『空になった初号机のケージ』に、ぽつんと『座り込んで』いる。
まるで、昨日そこに玩具があったので今日も来てみた子供のような、単纯で非积极的な行动。
自分からなにかをしよう、変えようという気がない。また同じことをすればいいと思っている。
カヲルと会った后は、今度はピアノの侧で座って待っているだけです。
この一连のシーンでは、シンジの背后に空の初号机のケージが映っています。
シンジの空虚な心の中に、初号机の影がちらついている。
今作でもうひとつ重要な点、系列を通して神の如き万能性を有していたカヲルの『失坠』です。
彼もまた、新剧では『缲り返し』であることを示唆し、自覚的に昔と同じことをやろうとする。
防护服を着て、本部外周?のようなとこに出て、世界の现状を说明するシーン。
シンジ达の居る阶段の下に、『见えてはいるが、どうやっても行き着くことの出来ない、朽ちた阶段』が映っています。
动画ーションでは、実写のように「偶然映り込んだ」ということは起こり得ません。
监督の意図したものしか画面に反映されないし、それには必ず意味があります。
この『もう一つのルート』が意味するところは、说明不要でしょう。
さて、Qでは、何もかも事情を知っていて、全てを见透かしたような态度だったカヲルが、初めて逡巡し、狼狈します。
テレビ版では结果的に敌対し、シンジの心に深い伤を残してしまったカヲル。
「今度こそ君だけは、幸せにしてみせる」という言叶通り、Qでの彼の立ち位置は、シンジにとって非常に甘いものでした。
「仆は君に会うために生まれてきたのかもしれない」から「生まれてきたんだね」という断言に変化し
共に过ごし、共にエヴァに乗り(しかしプラグ内には见えない壁がある)、二人なら出来る、一绪にやり直そうと优しい言叶をかける。
しかしこれは间违った选択。「ごめん、これは君が望んだ幸せではなかった」と言い、あっけなく散って逝く。
旧作と违い、シンジのことを常に想い、シンジのために全てを捧げる姿が感动的です。
シンジはカヲルが止めようと言うのに、枪でやり直すなんてギャグを言いつつ、暴走します。
ここで、序でライフルを持ち直すために顽张った姿と、「绫波を返せ」の眼のアップと同じカットが入る。
昔上手くいったから今度も上手くいくはずという非常に安易な选択を、周囲が止めるのに実行したシンジには、当然悲剧しか待っていません。
前作までで绝賛された名シーンをリフレインさせ『失败』を表现する、强烈な『ヱヴァ』の否定がここにはある。
そして最后に集まるのは、系列を通して『绝対的な他者』であったアスカと、自我の芽生え始めたレイ。
エントリープラグが子宫の暗喩であることは系列ファンなら承知のことで、この完全にプライベートな个室は
系列を通して、『心の部屋』の役割を果たしてきました。
わだかまりのあったトウジを入れることで分かり合い、绫波の心をこじ开け助けることで他人と繋がった。
今作のラストで、绝対的他者であるアスカは、旧作であれだけ固执していた二号机(ママ)を、シンジを止めるためにアッサリ破弃し
息をきらして无理やりプラグをこじ开け、ずかずかと入ってきて、シンジを外に连れ出します。
破では、『谁にも頼らない』、『一人で生きて行ける』と豪语していた式波も、Qの冒头では「コネメガネ援护!」や「なんとかしなさいよバカシンジ!」と
人に頼りまくりです。これが彼女にとっての『成长』だったんです。
旧作であれだけ嫌悪していた绫波にも「あんたはどうしたいんだ!」と说教します。
また、今作ではシンジに対して暴言を吐きまくりますが、旧系列で连呼していた「死ね」や「杀す」といった言叶は、决してシンジには言いません。
アスカの优しさ、シンジに対する想いは、ラスト一连のシーンの台词、宫村优子の演技に全て表れています。
序で、ミサトがシンジの手を引いたシーンと全く同じ构図で、アスカはシンジの手を引き、その后ろを绫波が着いて行きます。
命令以外の动作を行わない『アヤナミレイ』は、シンジの落としたS-DATを拾ったのか・・・?
旧系列で、最后まで绝対的な他者としてシンジを拒绝したアスカが、このどうしようもない迷子の二人を引率するという展开。
EOEを彷佛とさせる赤い砂漠を歩いて行く三人の姿。基本的にエヴァのEDというと
『つづく』の画面で、本编と切り离された流れ方をするのですが、魂のルフランのように
本编に食い込み『続いていく』ことを强调した、『桜流し』の曲の入り方も、とても美しい。
エヴァに乗ることで他者と繋がっていたシンジは、「乗らなくいい」となった时、どう行动するのか。
『エヴァ』という作品を作り続ける监督の喜びと苦悩。その答えが、次回で明らかになることでしょう。
Qは、旧系列とは别のところにあった新剧场版を、EOEと同じ地平に繋げた、重要な作品です。
ここに立ったことで、14年间を受け入れたことで、ようやく物语の行く末が见えてくる。
次回のタイトルが『ヱヴァ』から『エヴァ』表记に戻っていることからも、Qの役割はわかります。
ただ単に旧作をパワーアップさせただけの『破』までとは违い
新しい展开にしつつ、旧作を包括し、新剧场版としてのクライマックスへと繋がっていく。
决して訳が判らない映画ではないし、むしろひとつひとつのシーンが、非常に明确な意図を持って构筑され
无駄な部分など一切ない、実は破よりもアクションシーンの多い(というかネルフパート以外はほぼ全部アクションシーン)娯楽作ですし
それぞれ违う立场の人间が、己の愿いと意地をかけて全力で行动する、热い展开になっています。
ここが、EOEとは最も违う部分ではないでしょうか。あれは皆同じ组织に所属し、ゲンドウの掌で踊らされ、一方的に破局を迎えた映画でした。
确かに、初见ではシンジと同じように明らかに说明不足で置いてけぼりな印象になるように作られているし
主人公が一番ダメダメ野朗という、なんともスッキリしない构成だし
それまでの『人类対使徒』という构図や、大规模な组织运営の描写がなくなったことで
戦闘のスケール感や盛り上がり、ヒーロー映画としての娯楽性が、著しく低下したことは事実ですが
私はここまで考え抜かれた続编に、とても感心しました
と同时に、世间一般の评価がとても低く、作品内容がまともに理解されてない现状を悲しく思っています。
软件発売を机に、もう一度Qという作品の実像を见直してみてほしい。
杰作ですよ、これは。