今でも何か皆さんと一绪に有三さんが冗谈のように座っているんじゃないかなと思ってしまうくらい、とてもいつも冗谈が好きな方だったので、そんなことを思いながら、さっき(席に)座っていました。
有三さんとの思い出は语りきれないくらいあるんですけど、その中で特に印象に残っていることを少し、有三さんを思い出しながらお话したいと思います。
私が17歳のころ、有三さんの家に初めてお邪魔したとき、奥さんにお会いしました。そのとき3人で食べた金色の纸に包まれたリンゴのチョコレートの味を今でも覚えています。そして、今はテレビ朝日で顽张って働いている、当时赤ちゃんだった(二男の)达也くんを私が抱っこしてみんなで记念撮影をしました。
そして「おニャン子クラブ」、「うしろ髪ひかれ队」のときから始まり、ソロデビュー。当时1年に3回シングルをリリースするという时代でしたので、次々とすてきな曲をいただきました。有三さんは覚えてないかもしれませんが、曲が出るたび、私に「いい曲だろう」「いいよな」とうれしそうに闻かせてくれました。
特に「黄砂に吹かれて」という曲は、飞行机の中で有三さんがウォークマンを持っていて、かなりもったいぶってじらせて私に闻かせてくれました。そして「恋一夜」という曲のレコーディングのとき、私はどうしてもサビの部分があんまり高くて苦しかったので「キーを下げれないか」とお愿いしました。そしたら有三さんが「俺は静香の苦しそうな高音が好きだから、下げないで顽张って歌って」と言いました。それ以来、今もキーを下げずに、有三さんが好きだと言ってくれたキーで歌っています。
有三さんが病気と闘っていた5年间の间、一绪に食事に出かけたり、ゴルフをしたり、仕事以外たくさん楽しむことができてとてもうれしかったです。その间でも特に印象に残っているのは、ゴルフをしているとき、奥さんの庆子さんを高校生みたいに一生悬命デジカメでうれしそうに撮っていました。それがとってもうれしくて、何か、すごくかわいらしいというか、すごく无邪気で、すてきな有三さんの一面を见た気がしました。
ここ1年前くらいまでは「本当にこの人は病気なんだろうか?」って。「本当は冗谈だよ」とか「みんなに会いたかったから言ってたんだよ」とか言ってくれるのかな、なんて思うくらい元気で、笑いながら一绪に话したり、何か食べたりしていました。
そして、毎年来てくださる私のクリスマスディナーショーに、去年は「车いすでも参加したい」と12月の初めに连络がありました。しかし当日24日、かなり具合が悪いと思います。でも、具合が悪かったのにわざわざ病室から「ほんとうは行きたいけど无理なんだよ」と小さな声で电话をわざわざかけてきてくださいました。
そして(私が)すべて仕事を终えて30日、奥さまから状况は闻いていたので、少し覚悟をして会いに行きました。少しだけ痩せてましたが思っていたよりずっとずっと元気で、1时间半くらい病室でいろんなお话をさせていただきました。颜を见るなり「座って座って」と私を有三さんの隣りに座らせてくれました。そして病室で少しの间だけ、2人きりになった时间がありました。本当に少しの时间だったんですけど、2人きりのときに私はなぜか有三さんに「いろいろなこと、全部大丈夫?」と闻きました。そしたら「うん、全部终わったよ。ほっとした」とにっこりとほほ笑んでいました。
最后30日に1时间以上话す时间をくださった神様にとても感谢しています。私の歌手人生をスタートさせてくれた渡邉有三さんをもちろん一生忘れません。そして有三さんがプロデュースしてくれた歌を一生大切に歌って、また有三さんのところに届けたいと思います。本当にありがとうございました。まだちょっと亡くなったことが信じられないんですけど、信じられないような気持ちのままでもいいのかなと思います。本当にありがとうございました。
有三さんとの思い出は语りきれないくらいあるんですけど、その中で特に印象に残っていることを少し、有三さんを思い出しながらお话したいと思います。
私が17歳のころ、有三さんの家に初めてお邪魔したとき、奥さんにお会いしました。そのとき3人で食べた金色の纸に包まれたリンゴのチョコレートの味を今でも覚えています。そして、今はテレビ朝日で顽张って働いている、当时赤ちゃんだった(二男の)达也くんを私が抱っこしてみんなで记念撮影をしました。
そして「おニャン子クラブ」、「うしろ髪ひかれ队」のときから始まり、ソロデビュー。当时1年に3回シングルをリリースするという时代でしたので、次々とすてきな曲をいただきました。有三さんは覚えてないかもしれませんが、曲が出るたび、私に「いい曲だろう」「いいよな」とうれしそうに闻かせてくれました。
特に「黄砂に吹かれて」という曲は、飞行机の中で有三さんがウォークマンを持っていて、かなりもったいぶってじらせて私に闻かせてくれました。そして「恋一夜」という曲のレコーディングのとき、私はどうしてもサビの部分があんまり高くて苦しかったので「キーを下げれないか」とお愿いしました。そしたら有三さんが「俺は静香の苦しそうな高音が好きだから、下げないで顽张って歌って」と言いました。それ以来、今もキーを下げずに、有三さんが好きだと言ってくれたキーで歌っています。
有三さんが病気と闘っていた5年间の间、一绪に食事に出かけたり、ゴルフをしたり、仕事以外たくさん楽しむことができてとてもうれしかったです。その间でも特に印象に残っているのは、ゴルフをしているとき、奥さんの庆子さんを高校生みたいに一生悬命デジカメでうれしそうに撮っていました。それがとってもうれしくて、何か、すごくかわいらしいというか、すごく无邪気で、すてきな有三さんの一面を见た気がしました。
ここ1年前くらいまでは「本当にこの人は病気なんだろうか?」って。「本当は冗谈だよ」とか「みんなに会いたかったから言ってたんだよ」とか言ってくれるのかな、なんて思うくらい元気で、笑いながら一绪に话したり、何か食べたりしていました。
そして、毎年来てくださる私のクリスマスディナーショーに、去年は「车いすでも参加したい」と12月の初めに连络がありました。しかし当日24日、かなり具合が悪いと思います。でも、具合が悪かったのにわざわざ病室から「ほんとうは行きたいけど无理なんだよ」と小さな声で电话をわざわざかけてきてくださいました。
そして(私が)すべて仕事を终えて30日、奥さまから状况は闻いていたので、少し覚悟をして会いに行きました。少しだけ痩せてましたが思っていたよりずっとずっと元気で、1时间半くらい病室でいろんなお话をさせていただきました。颜を见るなり「座って座って」と私を有三さんの隣りに座らせてくれました。そして病室で少しの间だけ、2人きりになった时间がありました。本当に少しの时间だったんですけど、2人きりのときに私はなぜか有三さんに「いろいろなこと、全部大丈夫?」と闻きました。そしたら「うん、全部终わったよ。ほっとした」とにっこりとほほ笑んでいました。
最后30日に1时间以上话す时间をくださった神様にとても感谢しています。私の歌手人生をスタートさせてくれた渡邉有三さんをもちろん一生忘れません。そして有三さんがプロデュースしてくれた歌を一生大切に歌って、また有三さんのところに届けたいと思います。本当にありがとうございました。まだちょっと亡くなったことが信じられないんですけど、信じられないような気持ちのままでもいいのかなと思います。本当にありがとうございました。