――もちろん、子供のころから音楽が好きだったんですよね。
「1970年代に流行った、レッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリックスを闻いたのがきっかけ。でも、あくまで一部に过ぎない。80年代にニューウェーブと呼ばれた电子音楽なんかも好きだったね。たとえばYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)とか」
――ですが、伍佰さんが少年のころの台湾は、いまほど自由ではありませんでした。どうやって様々な音楽を聴いていたのですか。
「子供のころに聴いていたのはみんな海贼版だったよ」
――その伍佰青年が「音楽で生きてゆく」と决めたのは、何歳ぐらいですか。
「ミュージシャンになる前に、いくつかの仕事に就いたんだけど、うまくいかなかった。だけど音楽をやっているときは安心できた。『音楽をやることが自分にとってふさわしいことなんだ』と思えた。20歳前后だったかな」
台湾音楽の原点は日本の演歌
演歌の要素を入れた『树枝孤鸟』
――南部の嘉义県で生まれ育ったので、日本の演歌から影响を受けていませんか。
「昔の台湾の音楽はみんな演歌だった。日本人による统治が始まる前は布袋剧(プータイシー)だったけど演歌に変わった。演歌には台湾人が作ったものもあれば、日本の演歌を翻訳したものもある。台湾の流行音楽の初期の时代はそういう感じだった」
――日本の演歌歌手で好きな人や、子供のころによく聴いていた歌なんかはありませんか。
「歌手の名前や曲名までは分からないな。昔聴いていたのはみんな翻訳されて台湾人が歌っていたから。俺にとって演歌は『これが音楽なんだな』という原点のようなイメージがあるね」
「それが、1949年に国民党が台湾にやって来たことで、台湾の音楽は制约を受けた。もし制约を受けていなかったとして、台湾の音楽はどうなっていただろうか。そう考えて作ったのが『树枝孤鸟』(=98年に発表した台湾语音楽の创作アルバム。台湾で60万枚以上売れたと言われる)なんだ。このアルバムの曲の中には演歌の要素をたくさん入れた」
――伍佰さんの歌は主に北京语なのですが、台湾讹りが强いと言われます。台湾人としてのアイデンティティをそこに求めているのでしょうか。
「台湾は独自の文化に加えてアメリカ、日本、中国の影响を受けているんだけど、台湾人として、俺は演奏するときに『これが台湾の音楽なんだ』と聴いた人が感じやすいようにしている。だから“台湾国语”の中に台湾的な味わいを入れるとともに、台湾语の歌の中に北京语的な要素を入れているんだ」
「もちろん俺だって标准的な北京语で歌える。でも、あえて台湾讹りで歌っている。聴いた人が、歌の作り手のバックボーンや雰囲気を感じ取ってほしい、と思っているから」
「正确には俺の话す台湾语は嘉义讹りなんだ。嘉义人の话し方は北部や高雄の人たちとはかなり违う。地元では“海口讹り”と呼ばれている。嘉义と云林の海沿いに住む人たちの発音で、少しシャープな感じ。同じ台湾语と言っても俺の歌い方とほかの本省人とは(さらにローカルという意味で)姿势が违う」
――やはりアイデンティティと言えますよね。
「(『うーん』と言って3秒ほど沈黙した后)いつもそんなことを考えているわけじゃないよ。自然とそうなっていると言った方がいいかな。俺は『台湾人だからこうあるべき』なんて考えてない。常にそんなことを考えていたら疲れるじゃない(笑)。やりたいからやる、だから楽しい。それでいいじゃない。台湾は俺のものじゃない、みんなのものなんだからさ」
6月に台北でコンサート
「日本からゲストを呼ぶ」
――伍佰さんは黒や紫、青といった色の服をよく着ているようで、とても似合いますね。
「黒い服が似合う人は本当にすくないんだよ。でも俺は似合うでしょ(笑)。黄色や赤、青なんかも好きなんだけど、歌うときは黒を着る。なぜかというと、黒い服なら鲜明になるし、観客が俺の音楽や歌词の内容に集中しやすいはずだから」
――いま、嘉义が舞台の映画『KANO』が大ヒット中です。失礼ですが、普段は台湾人の口から「嘉义」という地名が出てくることは少ないですね。夸りに思われているのでは。
「嘉义人には个性的で、こだわりを持った人が多い。例を挙げると、俺が子供のころからいまに至るまで、嘉义市にはブラスバンドがある。台湾で最も长い歴史を持つはずだよ。それも一つの夸りだね」
「俺にとって特别な场所は嘉义と北海道。高速鉄道が开通して嘉义にも駅ができて便利になった。それで俺のファンが嘉义に行って、昔住んでいた家を见に行ったり、俺の亲父が働いていた炭鉱を见に行ったりしているんだ。その炭鉱は日本时代からあったものだよ」
「嘉义はあまり発展していない。だからこそ、昔の建物なんかがたくさん残っている。台湾を访れた日本の人たちには、ぜひ俺の故郷を见てもらいたいね」
――さて、今年の大きな活动としては、まず6月に台北アリーナで2日间のコンサートがあります。
「ツアーのタイトルは『无尽闪亮的世界』(=永远に辉く世界)。要するに伍佰の世界ということだね。今回のツアーを宣伝するポスター(17ページに掲载)には俺の背后にギターがずらりと并んでいる。あれは全部、俺のものなんだ」
「今回のツアーでは舞台设计をイギリス人に頼んだ。実は、俺がいま住んでいる(2つある)家の设计も彼が手挂けた。その人はナイトクラブの设计で有名で、台北でもいつくつかの建物を设计している。彼の设计を通じて伍佰の世界を表现したい」
「もう一つ仕挂けがあるよ。日本からある有名人を呼ぶんだ。今回のインタビューは4月号に掲载されるんだったね。コンサートは6月だから、まだ公表できないな(笑)」
――そういえば、伍佰&チャイナブルーという4人组のバンドは结成から22年间、メンバーが一度も変わったことがありません。仲が良いんですか。
「もはやメンバー同士の仲が良いとか悪いとかは问题じゃない。仲が悪くても続けることはできるじゃない」
――その人たちと一绪じゃないとだめだということですね。音楽を続ける限りは同じメンバーでやるのですね。
「その通り。彼らと一绪に奏でるのが伍佰の音楽なんだ。だから、これからも彼らとやって行くだろうね。俺にとっての嘉义みたいなもんだ」
――そういう関系を日本语では“腐れ縁”と言います。
「そう言うべきだね。Exactly(真にその通り)! バンドのメンバーっていうのは友达じゃない。Company(一座、一団)なんだ」
――最后の质问です。伍佰さんは台湾の芸能界では「キング(中国语では国王)」「老师(先生)」と呼ばれています。そう呼ばれることをご自分ではどう感じていますか。
「自分では特に気にしてないけど。でも最初のアルバムを出す前から“老师”と呼ばれていたんだ。実际にギターを教える先生だったからね。『ウーバイ ラオシー』って言い方は可爱くないかい。『伍佰大哥(アニキ)』『伍佰先生』なんてつまんない。
あと“キング”。そう呼ばれている人は结构いるよね。どうせならキングじゃなくてエンペラー(皇帝)が相応しいんじゃない(笑)」
