日本人の食生活ですっかりお驯染みの食べ物、佃煮。立派なわが国の伝统食でもある。では、佃煮はなぜ佃煮というのだろうか。
“佃煮”是日本人饮食中十分常见的食物。它也是日本独具特色的传统食物。说来,为什么会有“佃煮”这个称呼呢?
佃煮の発祥の地は、江戸时代の「佃岛」であることはよく知られている。つまり、料理の素材や料理法でもなく、地名が付いたものなのだ。今日のわれわれは、小鱼などを醤油で煮付けた状态の食べ物をひとくくりにして、どこで作られようが佃煮と呼んでいるのだが…。当时、佃煮は地域限定の名前だったが、现在は日本中津々浦々に広まって食べ物の一般名称へと成长した。
人们都知道,佃煮的发祥地是江户时代的“佃岛”。也就是说,“佃煮”并不来自食材或制法,而是由冠上了地名而来。像这种将小鱼用酱油炖制而成的食物,今天的我们不管其产地在哪儿,都一概称其为“佃煮”。而在当时,佃煮却是有地区限定的名字,现在它普及到了日本各地,名字也逐渐一般化了。

もし徳川家康が江戸に幕府を开かなかったら、今日この食べ物は存在したとしても、名称は佃煮とはならなかっただろうと笔者は考えている。それほど、家康と佃煮の関系は深いものがあるのだ。
如果德川家康没有在江户建立幕府的话,今天即便有这种食物存在,名字大概也不会叫佃煮吧。因为佃煮与家康实在是有很深的关联的。
天正10年(1582)6月、明智光秀が织田信长を讨った本能寺の変の一报が届いたとき、家康は堺に滞在中だった。三河の国(爱知県东部)の城主である家康がなぜ堺にいたのかというと、5月に信长の安土城を访ねた折、ついでに堺へ回って小旅行を楽しんでいたからである。商业で栄える堺を见闻するためでもあった。
天正10年(1582)6月,明智光秀在本能寺之变中讨取了织田信长的性命。接到这个消息时,家康正呆在堺市。话说三河国(爱知县东部)的城主家康为什么会在堺市呢?原来他5月访问了信长的安土城,顺便就小小旅行一番,游玩到了堺市。堺市是一个商业繁荣的城镇,他也是为了去见识一下。
知らせを闻いた家康は、「さあ、たいへん今度は自分がヤバイ」と直感したに违いない。急いで堺を脱出し、三河へ戻ろうと思ったが、居场所もルートも光秀侧には知られている。そこで三河とは逆の方向である大坂、兵库を回る作戦を立てた。神崎川(淀川の分流)をそっと渡らなければならなかったが、运悪く大水で立ち往生。そのとき渔船を出して家康一行を助けたのが、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の渔民たちだった。
家康听到本能寺之变的消息后,一定当即认为“这下糟了,我现在危险了”。他打算迅速离开堺市,回到自己的三河国,然而自己的行踪已被光秀方掌握到了。于是,他转换方针,绕道走与三河方向相反的大阪、兵库。因而必须得悄悄渡过神崎川(淀川分流),不过他运气不好,遇上了洪水进退不能。此时,出动渔船帮助家康的,正是摄津国佃村(大阪市西淀川区佃町)的渔民们。
摂津国佃村の渔民との関系は、これで终わらなかった。家康は幕府创设期から佃村の渔民を江戸に连れてきていたが、恩赏として幕府は寛永年间(1624~1644)に隅田川にある石川岛の近くの百间四方(约200メートル四方)の干潟を渔民に与えた。筑岛工事の完成后、佃村の渔民33名が移住。この岛を渔民の故郷にちなんで佃岛と名付けたのである。江戸の海や川での渔业を许可すると同时に、将军へ白鱼をはじめとする鱼介类を献上させた。
家康与摄津国佃村渔民的关系并未就此结束。他从创设幕府时期开始,便陆续将佃村的渔民带到江户。作为奖赏,幕府在宽永年间(1624年-1644年)将位于隅田川的石川岛附近大约200平方米的海涂赐给了渔民。筑岛工程完成后,佃村的33名渔民移居到了这里。这座岛也就由于渔民的故乡佃村而被命名为了“佃岛”。幕府不但允许他们在江户海域河川从事渔业,还让他们向将军进献银鱼等水产品。

佃煮は、佃岛の渔师が献上品である白鱼などの余りを塩で煮付けたものが始まりだといわれている。保存食としての生活の知恵だった。离れ小岛の佃岛は、时化(しけ)で食料の流通が止まったときにも安心だし、渔に出るときにも腐らない佃煮は便利な食べ物だった。佃岛は渔师町として発展し、进んだ渔业技术を江戸にもたらした。日本桥の鱼河岸の基础を筑いたのも佃岛の渔师たちである。
相传,佃岛渔夫将贡品银鱼的残剩用盐炖煮起来保存,这便是佃煮的由来。这是一种保存食物的生活窍门。在远离陆地的佃岛上,佃煮是一种方便的食物,遇上暴风雨食物流通受阻的时候能安心,出海打渔时也不用担心鱼肉会腐烂。佃岛作为渔民的城镇发展起来,将现金的渔业技术传到了江户。构建起日本桥鱼河岸基础的人,正是这些佃岛的渔夫们。
“佃煮”是日本人饮食中十分常见的食物。它也是日本独具特色的传统食物。说来,为什么会有“佃煮”这个称呼呢?
佃煮の発祥の地は、江戸时代の「佃岛」であることはよく知られている。つまり、料理の素材や料理法でもなく、地名が付いたものなのだ。今日のわれわれは、小鱼などを醤油で煮付けた状态の食べ物をひとくくりにして、どこで作られようが佃煮と呼んでいるのだが…。当时、佃煮は地域限定の名前だったが、现在は日本中津々浦々に広まって食べ物の一般名称へと成长した。
人们都知道,佃煮的发祥地是江户时代的“佃岛”。也就是说,“佃煮”并不来自食材或制法,而是由冠上了地名而来。像这种将小鱼用酱油炖制而成的食物,今天的我们不管其产地在哪儿,都一概称其为“佃煮”。而在当时,佃煮却是有地区限定的名字,现在它普及到了日本各地,名字也逐渐一般化了。

もし徳川家康が江戸に幕府を开かなかったら、今日この食べ物は存在したとしても、名称は佃煮とはならなかっただろうと笔者は考えている。それほど、家康と佃煮の関系は深いものがあるのだ。
如果德川家康没有在江户建立幕府的话,今天即便有这种食物存在,名字大概也不会叫佃煮吧。因为佃煮与家康实在是有很深的关联的。
天正10年(1582)6月、明智光秀が织田信长を讨った本能寺の変の一报が届いたとき、家康は堺に滞在中だった。三河の国(爱知県东部)の城主である家康がなぜ堺にいたのかというと、5月に信长の安土城を访ねた折、ついでに堺へ回って小旅行を楽しんでいたからである。商业で栄える堺を见闻するためでもあった。
天正10年(1582)6月,明智光秀在本能寺之变中讨取了织田信长的性命。接到这个消息时,家康正呆在堺市。话说三河国(爱知县东部)的城主家康为什么会在堺市呢?原来他5月访问了信长的安土城,顺便就小小旅行一番,游玩到了堺市。堺市是一个商业繁荣的城镇,他也是为了去见识一下。
知らせを闻いた家康は、「さあ、たいへん今度は自分がヤバイ」と直感したに违いない。急いで堺を脱出し、三河へ戻ろうと思ったが、居场所もルートも光秀侧には知られている。そこで三河とは逆の方向である大坂、兵库を回る作戦を立てた。神崎川(淀川の分流)をそっと渡らなければならなかったが、运悪く大水で立ち往生。そのとき渔船を出して家康一行を助けたのが、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の渔民たちだった。
家康听到本能寺之变的消息后,一定当即认为“这下糟了,我现在危险了”。他打算迅速离开堺市,回到自己的三河国,然而自己的行踪已被光秀方掌握到了。于是,他转换方针,绕道走与三河方向相反的大阪、兵库。因而必须得悄悄渡过神崎川(淀川分流),不过他运气不好,遇上了洪水进退不能。此时,出动渔船帮助家康的,正是摄津国佃村(大阪市西淀川区佃町)的渔民们。
摂津国佃村の渔民との関系は、これで终わらなかった。家康は幕府创设期から佃村の渔民を江戸に连れてきていたが、恩赏として幕府は寛永年间(1624~1644)に隅田川にある石川岛の近くの百间四方(约200メートル四方)の干潟を渔民に与えた。筑岛工事の完成后、佃村の渔民33名が移住。この岛を渔民の故郷にちなんで佃岛と名付けたのである。江戸の海や川での渔业を许可すると同时に、将军へ白鱼をはじめとする鱼介类を献上させた。
家康与摄津国佃村渔民的关系并未就此结束。他从创设幕府时期开始,便陆续将佃村的渔民带到江户。作为奖赏,幕府在宽永年间(1624年-1644年)将位于隅田川的石川岛附近大约200平方米的海涂赐给了渔民。筑岛工程完成后,佃村的33名渔民移居到了这里。这座岛也就由于渔民的故乡佃村而被命名为了“佃岛”。幕府不但允许他们在江户海域河川从事渔业,还让他们向将军进献银鱼等水产品。

佃煮は、佃岛の渔师が献上品である白鱼などの余りを塩で煮付けたものが始まりだといわれている。保存食としての生活の知恵だった。离れ小岛の佃岛は、时化(しけ)で食料の流通が止まったときにも安心だし、渔に出るときにも腐らない佃煮は便利な食べ物だった。佃岛は渔师町として発展し、进んだ渔业技术を江戸にもたらした。日本桥の鱼河岸の基础を筑いたのも佃岛の渔师たちである。
相传,佃岛渔夫将贡品银鱼的残剩用盐炖煮起来保存,这便是佃煮的由来。这是一种保存食物的生活窍门。在远离陆地的佃岛上,佃煮是一种方便的食物,遇上暴风雨食物流通受阻的时候能安心,出海打渔时也不用担心鱼肉会腐烂。佃岛作为渔民的城镇发展起来,将现金的渔业技术传到了江户。构建起日本桥鱼河岸基础的人,正是这些佃岛的渔夫们。