回复 碧蓝怒火88 :
しかし、弘治2年(1556年)5月、大友家中の他纹众(大友氏が豊后国へ来る以前からここに领地を持って住んでいた武家)を纠合し、大友庶家である同纹众の重用政策に反対して挙兵。同纹众と他纹众の反目は大友家中に以前から有り、あえて义鉴は加判众の半数を他纹众から选ぶように遗言していた。しかし义镇は同纹众を重用し、鉴元は肥后平定后加判众から外されていた。
他纹众の挙兵は大友氏馆のある府内でも発生し、一时は当主义镇も要害の丹生岛城へ避难する事态となったが、同纹众の働きにより、ともに挙兵した本庄新左卫门尉统纲(むねつな)、中村长直(ながなお)らは豊后国で讨ち取られ、佐伯惟教は伊予国に逃亡した。勇将である鉴元は南関城に笼城し城兵を叱咤して奋戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に挂け、城兵とともに城外に打って出て讨死した。
这里有提到同纹众,但是同样不是足利家,而是大友家
