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【进阶日语高级教程】第9课:パルテノンの青い空

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…真っ青な夏空にそびえる白亜のパルテノン神殿。以前から憧れを抱いていた神殿にいよいよ会えるかと思うと、自然に足が速まる。松林を抜け、細い道を息を弾ませて登っていく。この神殿で4年に一度行われた祭礼の日、日の出とともにアテネの町を発った行列の一行(いっこう)も、この道を神殿に向かったという。人々は何を思い、どんな祈りを胸に、この道をたどったのであろうか。一歩一歩、時代をさかのぼるように道を登る私も、いつしか行列に加わっていた。丘を登り切ると、そこに白い石の柱に支えられた神殿が堂々たる姿を見せていた。2500年という時の重みとあいまって、神殿は何人たりとも寄せつけないほどの威厳を感じさせる。
パルテノン神殿の建築には様々な工夫が凝らされている。アテネの人々がはるか遠くからアクロポリスの丘を仰ぎ見た時、より美しく均整の取れた姿に映るよう、緻密な計算をもとに、神殿はすべて曲線と曲面の組み合わせで出来ている。正面と後ろに8本、側面に17本の柱が並んでいるので、神殿全体は遠くから見ると、直方体に見える。が、垂直や平行の直線はどこにも使われていない。大理石の柱はどれも中央部に膨らみを持たせ、上部を細くした円柱形であり、わずかに内側に傾斜して立てられている。床面も平面ではなく中央が盛り上がっている。これらはすべて、人間の目の錯覚を十分に考慮した上での設計されたものだと言われている。さらに、これらの工夫は、単に美的効果のみならず、重い屋根を支え、水はけを良くするという実用面からも綿密に計算されたものだという。神々の時代を生きた人たちの偉大な知恵の結晶が、今に伝えられている。
この偉大な建造物は、紀元前432年、ペルシャとの戦争での勝利を記念して、女神アテナを祭る場所として建てられた。以来、400年にわたって、都市国家アテネの栄光と繁栄の象徴であったが、紀元前31年、ギリシャがローマに支配されると、ユダヤ教会として使われ始めた。その後1000年以上続いたローマ・ビザンチン時代は、新しい勢力の台頭とともに、終わりを告げ、1458年、オスマン・トルコによるアテネ支配が始まるや否や、今度はイスラム寺院として、さらには、兵舎、火薬庫、そしてハーレムとして使われることになる。歳月を経て、1829年、苦闘の末、ギリシャが独立を勝ち取るが、8年にわたる戦乱の影響は神殿にも及び、その一部が破壊された。ギリシャ独立後も、ヨーオッパを舞台とする様々な戦乱が原因となって、神殿の破壊は一段と進んだ。2500年の間の風化がこれに加わり、神殿の傷みはひどくなってきた。そこで、現在、アクロポリスの丘に立つ人類共有の遺産を未来に残すべく、建築技術の粋を駆使して、修復工事が続けられている。
…ふと見上げた青空を、ジャンボ機が音もなく飛んでいる。ジャンボが飛ぶ数千メートルの上空と私が立つパルテノンの丘とを隔てる距離は、神殿が建てられてから今に至るまでの気の遠くなるような時の隔たりを象徴するかのようでもある。もちろん、当時の人たちには、今の発達した文明社会など、想像しようにもできなかったであろう。今や、人間が世界中の空を所狭しと飛び回り、かつては神々を存在する場所としてあがめられていた宇宙へまでもその足を伸ばしているのである。しかし、大きく隔たって見える二つの世界は、決して切り離された存在というわけではない。パルテノンとジャンボの間の2500年は、神殿が築かれるずっと以前から現在まで脈々と続けられてきた人類の創造の営みによって、切れることなく結び付けられているのである。
人類の歴史は、創造の歴史であった。反面、数限りない戦いと破壊の歴史でもあった。領土、民族、宗教と、原因が何であるにせよ、人間は自ら築き上げた神殿をその同じ手で傷つけてもきた。2500年の間、歴史の光と影を映しながら立つ物言わぬ神殿を前に私は、しばしパルテノンの丘にたたずんでいた。


1楼2015-12-13 10:54回复
    没有译文吗


    来自Android客户端2楼2016-04-15 10:07
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      3楼2016-04-15 16:41
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        ありがとう


        来自Android客户端4楼2016-04-15 17:06
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