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【进阶日语高级教程】第12课:動物たちの嘆き

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栄養のバランスを十分に考えた食事が終わると、きれいな服を着せて美容院へ。シャンプーとカットの後は、病院で健康診断。病気のことを考えて保険にも一口。最後はお葬式を出して、それから、購入しておいた霊園に、お墓を建てる。犬の話である。たかが犬ごときにと馬鹿馬鹿しく思わないでもないが、とにかくペットブームはここまで来ている。もっとも、動物をこのような一方的な愛情の押し売りの対象、つまり愛がん動物として扱うことに疑問を抱き、社会の一員として受け入れ、共存を図ろうとする動きもある。犬を例に取れば、これまでのように番犬や警察犬として人間の生活に役立たせるために飼うのではなく、人間も犬も同じ動物だという立場からその権利を認め、社会生活における役割や楽しみを共有しようという人たちがいる。彼らはこのような人間と動物の新しいパートナーの関係を明確にするために、ペットの代わりにコンパニオン・アニマルという言葉を使い、動物と対等につき合おうとしている。が、当の動物たちはどうだろうか。無理やり人間社会の枠組みに組み込まれることなど、ありがた迷惑以外の何物でもないのではないだろうか。人間側の得手勝手なコンパニオン扱いは、犬側から言わせれば、愛がん動物、番犬の扱いと何ら変わるところはない。
犬に限らず、牛や馬などにも言えることであるが、動物は、いったん労働力として、あるいは、愛がん動物として飼われ始めてからは、自由を奪われ、人間社会という全く本来の生活環境とはかけ離れた生活パターンの中で生きることを強いられるようになった。動物園やサーカスの動物などにしたところで、事情は全く同じである。人間社会の中で囲われて生きているうちに生存するための本能を失い、野生に戻されてもえさを得る術(すべ)を知らず、ただ死を待つばかりである。このように、人間は今も昔も、形はどうであれ、無意識のうちに動物に対する虐待を続けてきた。
近年、動物実験の中止を求めて、世界のあちらこちらで運動が繰り広げられている。モルモット、マウス、うさぎ、犬、猿などが、医療技術進歩の目的で、故意に感染、発病させられ、そのあげく、手術台へ送られメスを入れられる。このような実験に使われる動物は、雑菌に冒されていてはいけないなどの厳しい条件があり、特殊な環境で繁殖、飼育される。また、保健所に収容された猫や犬なども実験用に用いられ、神経反応を調べるために死ぬまで固定された状態で脳に電気ショックを受けたり、普通の人間には正視に耐えぬような扱いがなされる。実験のためだけに繁殖させられた動物たちへの残虐な扱いに対して、「動物虐待だ」、「傲慢な人間が安易に考え、神聖な命をもてあそびすぎている」と、動物実験に反対する人たちは、声を限りに訴える。
一方では、これは必要悪だという意見も、当然ある。牛や豚、鶏などの家畜を殺して食用にしているではないか。これは、人間という種を存続させんがためには、どうしても目をつぶらざるを得ないことなのだ。それと同じで、新しい医療技術や、新しく開発された医薬品は、好むと好まざるとにかかわらず、動物実験という段階を踏まないことには、人間に応用するわけにはいかない。人間が病(やまい)を克服し、少しでも長生きするためには、仕方のないことだとする論理である。動物が虐待されるのは見るに忍びないから、新しい医療技術も薬もいらない。病気になったらなったで、あえて運命には逆らわないというのであれば話は別だが、そうでなければ、いくら残酷だからといって動物実験を辞めることはできない。これは、軽々しく反論できない意見である。
人間は、多種多様な目的で実に多くの動物を犠牲にしている。食料として、労働力として、さらには、愛がん用に、実験用にと数え上げればきりがない。同じ生命体であるにもかかわらず、自らの都合に合わせて利用し、虐待し続けてきた。我々は、そんな尊い犠牲の上に存在していることを忘れてはならない。かつて人は、日々の糧として動物の聖なる命を奪うとき、神の恵みに対して深い感謝の祈りを捧げたという。その敬けんな姿に、動物と人間との真の共存とは何かということが見えてくるような気がする。人間も動物も、それぞれが自然の一部を形成する対等の存在であり、それぞれに生きる場が与えられている。今一度、その原点に立ち返り「共存する」という問題を考えてみたい。


1楼2015-12-13 11:27回复
    这个翻译有么?


    来自Android客户端2楼2016-05-21 18:55
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