北京から一通の手紙が届いた。かつての教え子が結婚するということで、その報告かたがた近況をしらせてきた。懐かしい筆跡で、ぜひ出席してほしいとの一言も添えられていた……
数年前、私は、自分が担任する留学生たちと瀬戸内海の小さな島へ一泊二日の旅行に出かけた。日中は、島に残る名所・旧跡を訪ね、夜は地元の民宿に泊まった。民宿のご主人は、島の言葉で話すため、学生たちには少し聴き取りづらかったかもしれないが、とても面白い人だった。心尽くしの料理に舌鼓を打った後も、サラリーマンが嫌で民宿を始めたというご主人の巧みな話術に、しばらく時を忘れるほどだった。ちょっと学生たちが話に疲れてきたかなと見て取ると、すかさず「突堤へ行ってみ、今の季節、夜光虫がきれいやで」と飽きさせない。
「ヤコーチュー?」耳慣れない言葉に、学生たちは一様に「それ、何?」とけげんな顔をしてこちらを見たが、私は「百聞は一見にしかず」とばかりに立ち上がり、みんなを促して、夜の海へ向かった。突堤に着くと、テトラポッドを伝い歩き、水に手が届く所までたどり着いた。後に続く学生たちは、周りに集まってきて、一体「ヤコーチュー」がどこから出てくるのやらという様子でいる。私は、両手をそっと水中に入れ、それっと力一杯かき回した。夜の海に突然出現した光の乱舞に、学生たちから「わあっ」と大歓声が上がる。その後しばらくは、テトラポッドの暗がりのそこここで、パチャパチャ、パチャパチャという水音と悲鳴に似た歓声の大合奏がひとしきり続いた。突堤に陣取って夜釣りを楽しんでいた先客にとっては大迷惑であったに違いない。どこからも苦情は出なかったのは、テトラポッドの暗がりから聞こえてくるきょう声が日本語ではなかったせいかもしれない。水と戯れ、夜光虫のきらめきに目を奪われているうちに、「好事魔多し」を絵にかいたような出来事が起こった。「指輪がなくなった」と、それまで人一倍大声を張り上げて喜んでいたミエが涙声でぽつりと言った。泣き虫で甘えん坊のミエは、国に残した婚約者を思いホームシックに掛(罹)かった時、彼が贈ってくれた婚約指輪と話をし寂しさを紛らわすのだと、公言していた。そのミエの心のよりどころが、何かの弾みに、ミエの指を擦り抜け夜の海に姿を消してしまったのだ。
学生たちは、これといって手立ても思いつかないまま、しばらくは手持ちぶさたにたたずんでいたが、ひざに顔をうずめて肩を揺するミエの泣き声に促されるように、手探りで指輪探しを始めた。もう夜光虫どころではなかった。もとより、夜の海に沈んだ指輪が見つかるわけもなく、これは、ミエに対する、そして、悲しむミエに何もしてやれない自分自身に対する学生たちの気休めに過ぎなかった。男子学生の一人が近くにいた釣り客に懐中電灯を貸して欲しいと頼んだことがきっかけになって、釣り客たちが三々五々集まってきた。突堤の上と下とのやり取りだったが、それでも事情がわかると懐中電灯を差し出し、テトラポッドの暗がりを照らし出してくれたり、「これを使いなさい」といって貸してくれたりした。中には、突堤を下り「どの辺でなくしたんや」と学生と一緒に指輪探しをしてくれる人もいた。しかし、指輪はついに出てこなかった。
翌朝、目を覚ますと、宿はもぬけの殻になっていた。どこへ行ったんだろうと思ってとりあえず玄関まで出てみると、朝日を背にした一団がこちらへ向かってくる。皆、申し合わせたようにズボンをひざまでたくし上げ、両手に靴やサンダルをぶら下げている。どの顔も朝の日差しに笑顔が輝いている。ミエなどは、昨夜とは別人のような顔をしている。驚いたことに、先頭に立っているのは民宿の主人だった。「困ったときにお互い様や」と、泣き続けるミエを見るに見かねて、夜が白み始めるやいなや、学生を連れて突堤に向かったいきさつを、にこやかに話してくれた。突堤での指輪探しは不首尾に終わったということだが、指輪をなくした悲しみを自分のこととして受け止めてくれたクラスメートや宿の主人の気持ちが、そして、腰をかがめながらテトラポッドの間を隅々まで探してくれたその姿がどうやらミエの心を晴らしてくれたようだ。
国際うんぬんという催しが頻繁に開かれている。日本を国際化するために、日本人がもっと国際理解を深め国際人になれるようにと、ばく大な時間とお金が費やされてきた。国境に阻まれることなく、地球上に存在する多くの「違い」――人種、文化、肌の色、宗教等々――に妨げられることなく、「国境」を乗り越え、「違い」を認め合ってと、様々なイベントやセミナー、シンポジウムなどで「国際」が語られてきた。職業柄そうあってはいけないのだが、私は、そのような形で提唱される国際うんぬんがどうもしっくりこなくて、「どう表現しようとそう簡単にできることじゃない」と、「国際化」や「国際理解」などからは少し距離を置いて、やや冷ややかな態度で一連の動きを眺めていた。
瀬戸内海の島で夜光虫が取り持った人間関係を見て、私は少し考えが変わった。というよりは、それまで、何となくもやもやしていたものがはっきりした。突堤で懐中電灯をかざしてくれた釣り客たちも、先頭にたって指輪探しに汗を流してくれた民宿の主人、そして、ミエのクラスメートたちはもちろん、みんな、いとも簡単に、当然のこととして「困ったときはお互い様」と、人の悲しみを共有し、行動に移してくれた。そして、それがミエの悲しみを晴らしてくれた。ミエの指輪騒動は、単に、留学生が指輪を落とし、みんなでそれを探しただけという、人によっては、本当に取るに足りない、当たり前の出来事に見えるかもしれない。しかし、私にとっては、「国際は、個人と個人から」と、今更ながら再認識させられ、それまで感じていた国際うんぬんのもやもやを取り去ってくれる大きな出来事だった。
隣人と痛みを分かち合うこと。隣人は、たまたま「違い」を持った人であるかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし、それはさほど大きな問題ではない。「国際化」、「国際理解」と叫びながら、あまりにも国や文化などの「違い」をクローズアップしすぎているのではないだろうか。楽しい事は楽しいし、悲しい事はだれだって悲しい。そんな当たり前の感情を素直な気持ちで伝え合い、共有するのは、考えられているほど難しいことではない。楽しい時、うれしい時には喜びを、苦しい時、悲しい時には痛みを率直に分かち合う。これが国際化、国際理解でなくて何だろう。人間は、みんな「同じ」であるということに焦点が当てられることが少なすぎる。「みんな同じなんだ」という思いなくして、国際化も国際理解も始まらない。ミエの指輪騒動が、私に、はっきりそう教えてくれた……
ミエ、陳美惠さんが結婚すると言ってきた。指輪探しの仲間たちには知らせたのだろうか。あの夜の指輪は、今も、友情の光を宿しながら夜光虫の海で波に揺られているのだろうか。結婚式で指輪の交換をする時、ミエの頭の中には夜光虫にきらめく夜の海と明るい朝の日差しを浴びた暖かいみんなの笑顔がきっと蘇ってくるに違いない。
数年前、私は、自分が担任する留学生たちと瀬戸内海の小さな島へ一泊二日の旅行に出かけた。日中は、島に残る名所・旧跡を訪ね、夜は地元の民宿に泊まった。民宿のご主人は、島の言葉で話すため、学生たちには少し聴き取りづらかったかもしれないが、とても面白い人だった。心尽くしの料理に舌鼓を打った後も、サラリーマンが嫌で民宿を始めたというご主人の巧みな話術に、しばらく時を忘れるほどだった。ちょっと学生たちが話に疲れてきたかなと見て取ると、すかさず「突堤へ行ってみ、今の季節、夜光虫がきれいやで」と飽きさせない。
「ヤコーチュー?」耳慣れない言葉に、学生たちは一様に「それ、何?」とけげんな顔をしてこちらを見たが、私は「百聞は一見にしかず」とばかりに立ち上がり、みんなを促して、夜の海へ向かった。突堤に着くと、テトラポッドを伝い歩き、水に手が届く所までたどり着いた。後に続く学生たちは、周りに集まってきて、一体「ヤコーチュー」がどこから出てくるのやらという様子でいる。私は、両手をそっと水中に入れ、それっと力一杯かき回した。夜の海に突然出現した光の乱舞に、学生たちから「わあっ」と大歓声が上がる。その後しばらくは、テトラポッドの暗がりのそこここで、パチャパチャ、パチャパチャという水音と悲鳴に似た歓声の大合奏がひとしきり続いた。突堤に陣取って夜釣りを楽しんでいた先客にとっては大迷惑であったに違いない。どこからも苦情は出なかったのは、テトラポッドの暗がりから聞こえてくるきょう声が日本語ではなかったせいかもしれない。水と戯れ、夜光虫のきらめきに目を奪われているうちに、「好事魔多し」を絵にかいたような出来事が起こった。「指輪がなくなった」と、それまで人一倍大声を張り上げて喜んでいたミエが涙声でぽつりと言った。泣き虫で甘えん坊のミエは、国に残した婚約者を思いホームシックに掛(罹)かった時、彼が贈ってくれた婚約指輪と話をし寂しさを紛らわすのだと、公言していた。そのミエの心のよりどころが、何かの弾みに、ミエの指を擦り抜け夜の海に姿を消してしまったのだ。
学生たちは、これといって手立ても思いつかないまま、しばらくは手持ちぶさたにたたずんでいたが、ひざに顔をうずめて肩を揺するミエの泣き声に促されるように、手探りで指輪探しを始めた。もう夜光虫どころではなかった。もとより、夜の海に沈んだ指輪が見つかるわけもなく、これは、ミエに対する、そして、悲しむミエに何もしてやれない自分自身に対する学生たちの気休めに過ぎなかった。男子学生の一人が近くにいた釣り客に懐中電灯を貸して欲しいと頼んだことがきっかけになって、釣り客たちが三々五々集まってきた。突堤の上と下とのやり取りだったが、それでも事情がわかると懐中電灯を差し出し、テトラポッドの暗がりを照らし出してくれたり、「これを使いなさい」といって貸してくれたりした。中には、突堤を下り「どの辺でなくしたんや」と学生と一緒に指輪探しをしてくれる人もいた。しかし、指輪はついに出てこなかった。
翌朝、目を覚ますと、宿はもぬけの殻になっていた。どこへ行ったんだろうと思ってとりあえず玄関まで出てみると、朝日を背にした一団がこちらへ向かってくる。皆、申し合わせたようにズボンをひざまでたくし上げ、両手に靴やサンダルをぶら下げている。どの顔も朝の日差しに笑顔が輝いている。ミエなどは、昨夜とは別人のような顔をしている。驚いたことに、先頭に立っているのは民宿の主人だった。「困ったときにお互い様や」と、泣き続けるミエを見るに見かねて、夜が白み始めるやいなや、学生を連れて突堤に向かったいきさつを、にこやかに話してくれた。突堤での指輪探しは不首尾に終わったということだが、指輪をなくした悲しみを自分のこととして受け止めてくれたクラスメートや宿の主人の気持ちが、そして、腰をかがめながらテトラポッドの間を隅々まで探してくれたその姿がどうやらミエの心を晴らしてくれたようだ。
国際うんぬんという催しが頻繁に開かれている。日本を国際化するために、日本人がもっと国際理解を深め国際人になれるようにと、ばく大な時間とお金が費やされてきた。国境に阻まれることなく、地球上に存在する多くの「違い」――人種、文化、肌の色、宗教等々――に妨げられることなく、「国境」を乗り越え、「違い」を認め合ってと、様々なイベントやセミナー、シンポジウムなどで「国際」が語られてきた。職業柄そうあってはいけないのだが、私は、そのような形で提唱される国際うんぬんがどうもしっくりこなくて、「どう表現しようとそう簡単にできることじゃない」と、「国際化」や「国際理解」などからは少し距離を置いて、やや冷ややかな態度で一連の動きを眺めていた。
瀬戸内海の島で夜光虫が取り持った人間関係を見て、私は少し考えが変わった。というよりは、それまで、何となくもやもやしていたものがはっきりした。突堤で懐中電灯をかざしてくれた釣り客たちも、先頭にたって指輪探しに汗を流してくれた民宿の主人、そして、ミエのクラスメートたちはもちろん、みんな、いとも簡単に、当然のこととして「困ったときはお互い様」と、人の悲しみを共有し、行動に移してくれた。そして、それがミエの悲しみを晴らしてくれた。ミエの指輪騒動は、単に、留学生が指輪を落とし、みんなでそれを探しただけという、人によっては、本当に取るに足りない、当たり前の出来事に見えるかもしれない。しかし、私にとっては、「国際は、個人と個人から」と、今更ながら再認識させられ、それまで感じていた国際うんぬんのもやもやを取り去ってくれる大きな出来事だった。
隣人と痛みを分かち合うこと。隣人は、たまたま「違い」を持った人であるかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし、それはさほど大きな問題ではない。「国際化」、「国際理解」と叫びながら、あまりにも国や文化などの「違い」をクローズアップしすぎているのではないだろうか。楽しい事は楽しいし、悲しい事はだれだって悲しい。そんな当たり前の感情を素直な気持ちで伝え合い、共有するのは、考えられているほど難しいことではない。楽しい時、うれしい時には喜びを、苦しい時、悲しい時には痛みを率直に分かち合う。これが国際化、国際理解でなくて何だろう。人間は、みんな「同じ」であるということに焦点が当てられることが少なすぎる。「みんな同じなんだ」という思いなくして、国際化も国際理解も始まらない。ミエの指輪騒動が、私に、はっきりそう教えてくれた……
ミエ、陳美惠さんが結婚すると言ってきた。指輪探しの仲間たちには知らせたのだろうか。あの夜の指輪は、今も、友情の光を宿しながら夜光虫の海で波に揺られているのだろうか。結婚式で指輪の交換をする時、ミエの頭の中には夜光虫にきらめく夜の海と明るい朝の日差しを浴びた暖かいみんなの笑顔がきっと蘇ってくるに違いない。