銀の森のゴブリン
銀の森とは銀幕の森、つまり映画を中心にしたブログです
梁石日『血と骨』と映画版「血と骨」
2020/08/13 19:56:54
映画
小説
このところ家にいる時間が増えたせいで、ブログの更新頻度もぐっと上がってきています。かといって本格的な映画レビューを書くにはまだ早い。とてつもない集中力がいるので、そこまで復帰するにはまだまだ時間がかかるでしょう。そこで比較的楽なリストをあれこれ掲載して間を持たせているわけです。何かまだ使ってないネタはないかとパソコンのファイルや日記(フリーソフトの「そら日記」)や本棚を点検してみるといろいろ出てきます。例えば昔買った映画のパンフレット。と言っても個々の映画のパンフではなく、いろんな特集上映のパンフなどは情報満載です。中でも資料的価値が高いのは京橋のフィルムセンター(今は国立映画アーカイブという名称に替わったらしい)の特集パンフです。例えば「韓国映画――栄光の1960年代」なんてパンフが出てきて、こんなものいつ買ったんだと仰天しました。ざっと見ただけでもすごい資料がゴロゴロある。まさに宝の山。いずれじっくり目を通して、何らかの形でブログに反映したいと思っています。
と言うことで、今回はだいぶ前に書いた文章ですが「血と骨」を掲載します。映画版についてはとっくに本ブログに掲載してあったつもりでしたが、いくら探してもない。そこで原作本の書評と映画版の短いレビューを併せて掲載します。以前『飢餓海峡』でやったのと同じやり方です。例によって長い文章で申し訳ありませんが、ツイッターのような短い文で一つの作品を論じきれるはずはないと思いますので、今後も時代に逆らって長い文章(リスト)を掲載してゆくつもりです。
梁石日著『血と骨』(幻冬舎文庫)
『血と骨』を読み出したらむさぼるように読み耽った。下巻は2日間で読んでしまった。それほど面白かった。主人公金俊平のすさまじい存在感が圧倒的だ。妻の英姫のしたたかな存在感もかなりのもので、上巻はむしろ彼女の方が主人公だった気さえする。自己中心で家族のことなど一切顧みない俊平と、自分と子どもたちを何とか彼の暴力から守ろうとする英姫の関係が上巻のテーマだ。しかし下巻では俊平と英姫の関係は完全に断ち切れて、新しい妾が2人も現れる。そしてテーマは息子の成漢との親子の対立に移る。金俊平も最後は哀れである。さすがの彼も年には勝てない。突然歯が抜けて総入れ歯になり、老眼鏡をかけるようになる。ついに脳梗塞で下半身が麻痺してしまう。動けない金俊平はもう脅威ではない。愛人の定子に金を奪われ、散々殴られてもどうすることも出来ない。ついには北朝鮮に帰り3年後に死ぬ。
日本文学にこれほど強烈な存在感を持った主人公がいただろうか。いや世界中を探してもいなかったように思う。ここまで徹底して自己中心的に人はなれない。しかもそれに暴力が加わると強烈だ。解説によると日本の純文学の世界ではほとんど話題にならなかったようだが、純文学の世界の狭さが逆にそのことから浮き彫りになる。(注)またその解説も的外れだと感じた。オイディプスを例に取り運命論を論じるが、金俊平に運命論は当てはめることは無理だ。英姫やその子どもたちは確かに俊平との出会いや血のつながりに運命を感じているが(英姫はいつもこれも運命だと自分に言い聞かせていた)、金俊平の自己中心性と暴力性は運命論とは関係ない。彼に運命があるとしたら、どんなに頑丈な人間も最後には老いて衰えてゆくということだが、それも当たり前のことであって運命論などと言うほどのことではない。彼の超絶性も論じているが、確かにそれはある。彼の際立った存在感は彼の人並みはずれた膂力と暴力性から来ている。しかしこの作品は徹底してリアリズムで書かれており、彼の人物形象に何らかの象徴性や観念を読み込むことは危険である。ただ乱暴で強いだけの主人公なら他にもたくさんいる。だが金俊平が際立っているのは家族に対する冷酷なまでの冷たい対応である。世間の常識を歯牙にもかけないその反社会性こそ彼の真骨頂である。最後まで金にしがみつき、他人を信用しない。子どもの学費すら出し渋る。怪物と呼ばれるゆえんだ。
しかしそんな彼にも跡継ぎの男児をほしがるという気持ちはある。ひたすら男児にこだわる。もっとも、生まれたらすぐ関心を失ってしまうのだが。祖国が分断されたことにさえ関心を示さない男で、世間の常識というものからはおよそへだたった考え方をする彼にも、唯一世間が理解できるこだわりがあったのだ。だが、自分の跡継ぎを望むというのも、実は自己保存本能から発しているのではないか。死ぬまでは自分の金は決して手放さないが、死んだ後は男児に残す。そんな考えがあったのではないか。『
銀の森とは銀幕の森、つまり映画を中心にしたブログです
梁石日『血と骨』と映画版「血と骨」
2020/08/13 19:56:54
映画
小説
このところ家にいる時間が増えたせいで、ブログの更新頻度もぐっと上がってきています。かといって本格的な映画レビューを書くにはまだ早い。とてつもない集中力がいるので、そこまで復帰するにはまだまだ時間がかかるでしょう。そこで比較的楽なリストをあれこれ掲載して間を持たせているわけです。何かまだ使ってないネタはないかとパソコンのファイルや日記(フリーソフトの「そら日記」)や本棚を点検してみるといろいろ出てきます。例えば昔買った映画のパンフレット。と言っても個々の映画のパンフではなく、いろんな特集上映のパンフなどは情報満載です。中でも資料的価値が高いのは京橋のフィルムセンター(今は国立映画アーカイブという名称に替わったらしい)の特集パンフです。例えば「韓国映画――栄光の1960年代」なんてパンフが出てきて、こんなものいつ買ったんだと仰天しました。ざっと見ただけでもすごい資料がゴロゴロある。まさに宝の山。いずれじっくり目を通して、何らかの形でブログに反映したいと思っています。
と言うことで、今回はだいぶ前に書いた文章ですが「血と骨」を掲載します。映画版についてはとっくに本ブログに掲載してあったつもりでしたが、いくら探してもない。そこで原作本の書評と映画版の短いレビューを併せて掲載します。以前『飢餓海峡』でやったのと同じやり方です。例によって長い文章で申し訳ありませんが、ツイッターのような短い文で一つの作品を論じきれるはずはないと思いますので、今後も時代に逆らって長い文章(リスト)を掲載してゆくつもりです。
梁石日著『血と骨』(幻冬舎文庫)
『血と骨』を読み出したらむさぼるように読み耽った。下巻は2日間で読んでしまった。それほど面白かった。主人公金俊平のすさまじい存在感が圧倒的だ。妻の英姫のしたたかな存在感もかなりのもので、上巻はむしろ彼女の方が主人公だった気さえする。自己中心で家族のことなど一切顧みない俊平と、自分と子どもたちを何とか彼の暴力から守ろうとする英姫の関係が上巻のテーマだ。しかし下巻では俊平と英姫の関係は完全に断ち切れて、新しい妾が2人も現れる。そしてテーマは息子の成漢との親子の対立に移る。金俊平も最後は哀れである。さすがの彼も年には勝てない。突然歯が抜けて総入れ歯になり、老眼鏡をかけるようになる。ついに脳梗塞で下半身が麻痺してしまう。動けない金俊平はもう脅威ではない。愛人の定子に金を奪われ、散々殴られてもどうすることも出来ない。ついには北朝鮮に帰り3年後に死ぬ。
日本文学にこれほど強烈な存在感を持った主人公がいただろうか。いや世界中を探してもいなかったように思う。ここまで徹底して自己中心的に人はなれない。しかもそれに暴力が加わると強烈だ。解説によると日本の純文学の世界ではほとんど話題にならなかったようだが、純文学の世界の狭さが逆にそのことから浮き彫りになる。(注)またその解説も的外れだと感じた。オイディプスを例に取り運命論を論じるが、金俊平に運命論は当てはめることは無理だ。英姫やその子どもたちは確かに俊平との出会いや血のつながりに運命を感じているが(英姫はいつもこれも運命だと自分に言い聞かせていた)、金俊平の自己中心性と暴力性は運命論とは関係ない。彼に運命があるとしたら、どんなに頑丈な人間も最後には老いて衰えてゆくということだが、それも当たり前のことであって運命論などと言うほどのことではない。彼の超絶性も論じているが、確かにそれはある。彼の際立った存在感は彼の人並みはずれた膂力と暴力性から来ている。しかしこの作品は徹底してリアリズムで書かれており、彼の人物形象に何らかの象徴性や観念を読み込むことは危険である。ただ乱暴で強いだけの主人公なら他にもたくさんいる。だが金俊平が際立っているのは家族に対する冷酷なまでの冷たい対応である。世間の常識を歯牙にもかけないその反社会性こそ彼の真骨頂である。最後まで金にしがみつき、他人を信用しない。子どもの学費すら出し渋る。怪物と呼ばれるゆえんだ。
しかしそんな彼にも跡継ぎの男児をほしがるという気持ちはある。ひたすら男児にこだわる。もっとも、生まれたらすぐ関心を失ってしまうのだが。祖国が分断されたことにさえ関心を示さない男で、世間の常識というものからはおよそへだたった考え方をする彼にも、唯一世間が理解できるこだわりがあったのだ。だが、自分の跡継ぎを望むというのも、実は自己保存本能から発しているのではないか。死ぬまでは自分の金は決して手放さないが、死んだ後は男児に残す。そんな考えがあったのではないか。『