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茨木典子の诗

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1楼2010-08-07 10:40回复

        不要把正在枯竭、干涸的心
         归咎于别人的过错
         因为是自己懒于浇灌
         不要把心情不悦
         归咎于朋友的过错
         失去温柔的是谁呢?
         不要把焦燥不安
         归咎于亲人的过错
         因为做什么都笨拙的是自己
         不要把即将消失的初衷
         归咎于生活的过错
         因为意志从一开使始就过于软弱
         不要把一切糟糕的事物
         归咎于于时代的错误
         而放弃微微闪光的尊严
         傻瓜哟
         自己的感受
         要由自己守护
         想依靠
         已经
         无法依靠快死的表情
         已经
         无法依靠既有的宗教
         已经
         无法依靠既有的学问
         已经
         无法依靠再大的权威
         活久一点
         想学的东西也就是那些
         自己的见闻
         只有自己的双脚支撑着
         是不合理的
         如果依靠的话
         就像椅子的靠背一样
    


    2楼2010-08-07 10:43
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      きらりと光るダイヤのような日
      とてもとても短い生涯
      60年か70年の
      お百姓はどれだけの田植えをするのだろう。
      コックはパイをどれくらい焼くのだろう。
      教師は同じことをどれくらいしゃべるのだろう。
      子供達は地球の住人になるために
      文法や算数や魚の生態なんかを
      しこたまつめこまれる。
      それから品種の改良や
      理不尽な権力との闘いや
      不正な裁判の攻撃や
      泣きたいような雑用や
      ばかな戦争の後始末をして
      研究や精進や結婚などがあって
      小さな赤ん坊が生まれたりすると
      考えたり、もっと違った自分になりたい
      欲望などはもはや贅沢品となってしまう。
      世界に別れを告げる日
      人は一生をふりかえって
      自分が本当に生きた日が
      あまりに少なかったことに驚くであろう。
      指折り数えるほどしかない
      その日々のなかのひとつには
      恋人との最初の一瞥の
      するどい閃光などもまじっているだろう。
      <本当に生きた日>は人によって
      たしかに違う。
      きらりと光るダイヤのような日は
      銃殺の朝であったり
      アトリエの夜であったり
      果樹園のまひるであったり
      未明のスクラムであったりするのだ。


      3楼2010-08-07 10:47
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